打ちっぱなし

第98ホール 『改悪』の5試合ルール

第97ホール 2015年、日本ゴルフ界の「視野」

第96ホール タイガーの新コーチ

第95ホール 松山英樹、勝利への…

第94ホール 上田桃子の復活勝利

第93ホール JGTOの新規定に見る…

第92ホール 「ライダーカップ」に見た…

第91ホール 崩れたスイングや体調は…

第90ホール 「フィルのゴルフは…

第89ホール 日本勢総崩れのウィンダム選手権

第88ホール 女性の指から落ちたダイヤモンド

第87ホール 全英オープンの…

第86ホール 石川遼、2季ぶりの勝利

第85ホール 全米オープン「2つの勝因」

第84ホール PGAツアーを制覇…

第83ホール アマチュア躍進にみる日本の…

第82ホール 日本女子ゴルフのスター候補生たち

第81ホール 飛距離だけがゴルフではない

第80ホール 衝撃の大会「ネスレ日本…

第79ホール 勝つためには「バーディー」…

第78ホール 冬季五輪始末記

第77ホール ソチ五輪…

第76ホール 石川、松山の…

第75ホール 石川遼も驚く「片腕ゴルファー」

第74ホール 「ゴルフクラブの声に...

第73ホール 史上最強の賞金王・松山英樹

第72ホール 「リオ五輪」…

第71ホール 日本にゴルフを広めた…

第70ホール 「実力のゴルフ」で…

第69ホール 石川と松山、ライバルの共闘

第68ホール チームジャパンNo1,

第67ホール ミスを誘発する「小人の話」

第66ホール キャディやコーチの影響力は凄い

第65ホール 技術よりもメンタル…

第64ホール 松山のドライバーを…

第63ホール 全英オープン…

第62ホール 石川と松山の直接対決…

第61ホール 超難関コース「全米オープン」

第60ホール 松山英樹、世界最高峰の舞台へ

第59ホール 物議を醸しだす主役…

第58ホール 次世代のヒーロー、松山英樹

第57ホール マスターズ、失格に…

第56ホール 勢力を盛り返している米国勢

第55ホール 私が石川遼に期待する理由

第54ホール ゴルファーの楽しみを奪う…

第53ホール 「やさしいアイアン」は粗大ゴミ

第52ホール アジャスタブルドライバー…

第51ホール 米国内に一軒家を3戸構えた理由

第50ホール 今年は勝つためのゴルフを…

第49ホール アマチュア組織がプロの…

第48ホール 43歳にして初の賞金王…

第47ホール 石川遼、二年ぶりのツアー優勝

第46ホール 世界一の集客力、日本女子ツアー

第45ホール 日本のゴルフ界に…

第44ホール 何よりも大切な大会…

第43ホール 日本に求められる…

第42ホール ミスショットへの対応

第41ホール 記録づくめで圧勝、R・マキロイ

第40ホール 消える「アメリカンドリーム」…

第39ホール 日韓対抗戦…

第38ホール なぜ多い?『最終日の逆転優勝』

第37ホール 石川遼、「世界で最も…

第36ホール 「全米オープン」期待の…

第35ホール ゴルフは「思い通りに…

第34ホール 「泣き虫プレイヤー」…

第33ホール 「泣き虫プレイヤー」…

第32ホール 「王者」タイガー・ウッズの復活

第31ホール 世界が認める石川遼の「値打ち」

第30ホール 韓国勢の強さの秘密…

第29ホール タイガーウッズ…

第28ホール 「ベリーパター…

第27ホール 石川遼、『悩みの時期』

第26ホール 遺族に手渡された…

第25ホール 今年、2012年のキーワードは?

第24ホール トッププレイヤー・2011年の総括

第23ホール 心に波が立たない選手…

第22ホール 谷口と松村の…

第21ホール 「日本オープン」を観戦して

第20ホール プロゴルファーの手本…

第19ホール パターフィッティングの秘訣

第18ホール プロゴルファーの年金…

第17ホール 全米プロゴルフ選手権最終日

第16ホール 宮里藍、今シーズン初優勝

第15ホール 育成に劣る日本のゴルフ界

第14ホール 史上最高のパットの…

第13ホール 波に乗り切れない石川遼

第12ホール 買収劇の裏に韓国のゴルフ熱

第11ホール ゴルフの巨星堕つ…

第10ホール 誰かのために闘う人間は強い

第9ホール マスターズの表彰台に…

第8ホール 石川遼、被災者支援に…

第7ホール 東日本大震災、ゴルフ界も復興支援

第6ホール 韓国勢に圧倒される女子ツアー

第5ホール ホンダPTT LPGA タイランド

第4ホール 大統領を動かす…

第3ホール ロイヤルトロフィー…

第2ホール 「石川遼・副会長」に異議あり

第1ホール T・ウッズ、運命の…

誰かのために闘う人間は強い

 東日本大震災の影響で開催地を東京からモスクワに移したフィギュアスケート「世界選手権」で、安藤美姫選手が優勝しました。彼女を世界一に押し上げたのは「日本の、被災地のために滑る。一人でも多くの人に笑顔になってもらいたい」という強い想いでした。
 被災者のことを思い「自分は普通の生活を続けていていいのか」と悩んでいたとき、背中を押してくれたのは、「笑顔がみたい」という被災者からのメッセージでした。仙台では改修工事を間に合わせたスタジアムで、プロ野球の楽天が田中将大投手の力投で地元での初戦を勝利で飾り、Jリーグの仙台は、これまで一度も勝ったことがない浦和に快勝とスポーツ選手たちの活躍が被災地に明るい話題を届けています。
 楽天の嶋基宏選手会長は試合後、スタンドのファンに「何のために僕たちは戦うのか、はっきりしました。この1ヶ月半で解ったことがあります。それは、誰かのために戦う人間は強い、ということです」とその熱い想いを観客に伝え、大きな声援を受けていました。
 スポーツの世界だけではなく「誰かのために戦う人間は強い」という言葉は、戦争を経験した昭和の日本人なら当たり前に理解しあえた言葉のように思います。被災地の傷跡はあまりに深く広範囲で、復旧、復興には相当の時間が必要です。避難所生活の不便さは大変なものでしょう。現実を深く受け止め「誰かのために戦う」ことは、自身にも、回りで支え応援する人々にも力を与えます。日本の復興を信じて「誰かのために戦う」人々の輪を広げ、必ず越えなくてはいけない国難に立ち向かっていきましょう。
 3月21日の開幕するはずだった「東京・世界選手権」に照準を合わせていた、フィギアスケート日本選手団に影響があったのは間違いありませんが、試合前の会見で安藤美姫は「震災が起きたばかりのころは、スケートなんてやっていていいのかという気持ちがあった。でもそのうちに、これが自分にできることなのだからという気持ちに変わっていきました」と語っています。彼女が前回、世界チャンピオンになったのは、2007年東京世界選手権でのことで、2011年「モスクワ・世界選手権」で4年ぶりに二度目の「世界女王タイトル」を手に入れたことになります。
 この大会で注目されていたのは、バンクーバー五輪の金メダリスト、キム・ヨナの出場でした。昨年度の世界選手権を最後に競技から休みをとっていた彼女にとって、1年ぶりの大会出場となりました。このコラムでスポーツは準備が重要と何度も書いてきましたが、小さな大会で足慣らしをすることもなく、いきなり世界選手権に挑戦というのは普通ならば考えられないことです。開幕直前の報道によると公式練習では絶好調な滑りを見せていたキム・ヨナでしたが、やはり彼女にも1年間のブランクの影響はありました。僅差でトップに立ったフリーの演技では2つジャンプミスがあり、安藤に逆転を許して総合2位に終わりました。
 「五輪も世界選手権も優勝して、今では有名でお金持ちになったあなたが、どうして試合に戻ってきたいと思ったのですか?」会見でそう聞かれると、キム・ヨナは苦笑いをしながら「なぜこんなことをしなくてはならないの、と思ったことは何度もある。でもファンに私の新しいプログラムを見てもらいたいと思った。特にいつも応援してくれた韓国のファンに、私のフリーを見てもらいたかったんです」と答えていますが、2018年冬季五輪の開催都市を決める7月のIOC総会(南アフリカ・ダーバン)に平昌(ピョンチャン)招致団の一員として、プレゼンテーションをする予定になっており、総会に「世界選手権・金メダル」を持って行きたかったのではないかと思います。
 「五輪の後はしばらく休みたかったので、GPシリーズや四大陸選手権には準備が間に合わなかった。でもミスをした原因は、ブランクのためだとは思いません。ちょっと緊張してしまったためのミスでした」と語りましたが、実はこの緊張こそが、準備不足がもたらしたものだと思います。
 優勝した安藤は、シーズンを通して安定した演技を見せていました。「プレッシャーのあった五輪の年を終えて、今シーズンは本当にスケートを楽しむことができるようになった。この大会も、重く感じずにリラックスしてできた。ベストな滑りではなかったけれど、達成感があります」と答えました。4回転にこだわり、成績が残せなかった辛い時期を乗り越え、今回は3+3のコンビネーションにも挑むことなく、完成度の高さにこだわったことが情感たっぷりで余裕のある、素晴らしい演技につながったのでしょう。ひたすら4回転サルコウにこだわっていた「ジャンプの美姫」は、勝ち方を知っている自分のスタイルを持った選手に成長し、みごとに二度目のタイトルを手にしました。
 キム・ヨナが平昌(ピョンチャン)招致団の一員として、7月のIOC総会に出席して誘致活動をするには訳があります。キム・ヨナが金メダルを獲ったバンクーバーと開催地を最後まで争ったのは平昌でした。2003年7月にチェコの首都プラハで行われた国際五輪委員会(IOC)総会で、平昌は1回目の投票で51票を獲得し、バンクーバー(40票)を11票も上回っていたのです。ところが、2回目の投票では53票にとどまり、バンクーバー(56票)に3票差で敗れたという「苦い経験」があります。
 当時の冬季五輪誘致のスポンサーの一人、李健熙(イ・ゴンヒ)サムスングループ会長が、「夏季スポーツの基本が陸上ならば、冬季スポーツの基本はスケートだ。韓国が冬季オリンピックを誘致するためには、スケート種目を育成する必要がある。だが、決して性急に考えてはならない。支援が干渉になってはならず、10年間は根気強く投資しなければならない」とサムスンスポーツ団のパク・ソンイン団長(後のバンクーバー冬季オリンピック韓国選手団長)に指示したのが1997年 でした。サムスングループはこのときから毎年7億~8億ウォン(当時のレートで約7千万~8千万円)ずつ、選手の訓練費や道具などをサポートしたとされています。オリンピックなど大規模な国際大会が開かれる年には、支援金をさらに増やし、バンクーバーま出のサムソングループ支援金の累計は120億ウォン(当時のレートで約12億円)を超えています。
 朴韓国選手団長はバンクーバーに出発する前「13年前、李健熙会長の指示で事実上、“バンクーバー・プロジェクト”が誕生したことになる」と語っています。「バンクーバー・プロジェクト」とは、スピードスケート、ショートトラック、フィギュアスケートで韓国人選手が金メダルを獲得するための計画で、サムスンの後援金を活用し、スピードスケートやフィギュアスケート選手の底辺を広げようと、有望株のための大会を新設、賞金と奨学金を設けたのですが、キム・ヨナはまさにこの大会で3連覇を果たし世界に旅立ったのです。
 キム・ヨナ一家の家族構成は両親と姉一人で決して裕福な家庭ではありませんでした。キム・ヨナはソウルから1時間ほど南のベッドタウン、軍浦(グンポ)市で17歳までを過ごしています。自宅から近い果川(クヮチョン)市のスケートクラブでのリュ・ジョンヒョンコーチとの出会いがキム・ヨナの人生を変えます。キム・ヨナが姉のエラと参加していたのはエリート選手を目指すコースではなく、普通の習い事レベルのクラスでした。可能性を見抜いたリュコーチは「経済的な負担が大きければ、レッスン代はいりません。無料ででも教えたいのです」と申し出たそうですが、母は「それは結構です。少し大変ですが、こちらで負担します」と断ったそうです。しかし両親は姉のエラにはスケートをやめさせ、経済的なことを考え、キム・ヨナの別の習い事、ピアノ、そろばん、英語も辞めさせ、フィギアだけの生活を選ばせたのです。キム・ヨナの出現前までフィギュアの認知度がかなり低かった当時の韓国では、大変な決断だったのではないでしょうか。
 リュコーチはキム・ヨナに対して「オリンピックで金メダルを獲れる100年に一度、出るか出ないかの選手だ、つねにプライドを持て。おまえは成功できる選手だ。スケートのこと以外考えるな」と年齢による体力差が出るトレーニングでも、年上の選手についていくよう、夢に向かって叱咤を繰り返したといいます。
 キム・ヨナが厳しい練習を日課としていた時期に、李健熙サムソン会長の指示を受け、パク・ソンイン団長がサムソンスポーツ団から、大韓スケート競技連盟会長に籍を移したことも大きな力となりました。李健熙会長は冬季五輪が韓国で開催されることを願い「10年計画」を進めたのでしょう。13年経ったバンクーバー冬季五輪でキム・ヨナの金メダルと、スピードスケート500メートルで、男女ともに金メダルを獲得したことで「10年計画」は大輪の花を咲かせたことになります。しかし韓国国民念願の「冬季五輪誘致」のプレゼンテーションには、キム・ヨナ自身も「世界選手権・金メダルが何としても必要」と考えたのでは?そのための、一年ぶりで準備不足の「世界選手権」出場だったように思います。今回はゴルフネタではではありませんが、韓国に長く住んでいた、私なりの感想を述べさせていただきました。 (サミー大高)