第 16 回

 10年位前になります。焼肉ハットリに、Iさんという常連さんがいらっしゃいました。穏やかな紳士と言う感じの方で、初めは会社の方に連れられて来店され、それからは本当によくご利用下さいました。お名前やお顔を覚えるのが苦手な私が、なぜすぐお名前を覚えたかと言うと、こんな事があったのです。ある日、おひとりで来店されて、「1時間くらい時間を潰さなきゃいけないんだよ。アポが中途半端な時間だから、何処かないかなぁ、ゆっくりできるところ。」そんな事を呟かれていたので、私は足マッサージをお勧めしました。来タイまだ日が浅く、タイの事が良く分からないという事で、スクムビット通りには、たくさんタイマッサージ屋があることを説明し、Iさんは出掛けて行かれました。あの頃は日系のきれいなマッサージ屋がまだなくて、ローカルの昔ながらのお店が多かったのです。
 それから2~3日して、Iさんが来店された時、指にグルグルと包帯を巻いておられたので、「どうしたのですか?」と尋ねると、驚きました!あの日通りかかったマッサージ屋に入ったIさんは、タイ語が分からないながらも「足マッサージ1時間。」と頑張って言い、「さぁ、どうぞどうぞ」と3階まで連れて行かれ、「スペシャルマッサージ1000バーツ。OK?」と言うような事を言われたのだそうです。「ノー、ノー!」と断固断ると、マッサージ嬢が急に無愛想になり、最後の肩と指のマッサージはほとんど暴力的になったとか。帰宅してどうも指が痛くてたまらなくなり、病院へ行くと、なんと骨にヒビが入っていたそうです。なんだか悪い事をしたようで、私はIさんに「余計な事を言ってしまって…。」と謝りました。その時Iさんのお名前を覚えたという訳です。それからは会社の若い方たちを連れて、良くご来店頂きました。それから何年かして、突然Iさんが来られなくなりました。何かあったのかと心配していましたが、ある日激やせしたIさんが店に入って来られました。はじめ、Iさんだとは分からなかったくらい痩せておられ、息を飲む思いでした。「ガンを手術したんだよ。」とIさんは笑って、私は言葉がありませんでした。「結果は5年分からない。手術後は日本の方がいいという事で、今度帰国をする事になってね。」 Iさんは別れの挨拶に来られたのです。あまりのやつれ様に、私はただオロオロしていました。私はショールームの店番をしていたのですが、どうにも涙が止まらなくなってしまいました。年配のご婦人のお客様が入って来られて、「どうかなさいました?」と聞かれて、私は「長いお付き合いのお客様が、病気で帰国されることになって…。」と、しどろもどろで答えました。その方は、「私、つい最近大切な人を亡くしましてね。別れはいやですね。でもきっとその方は大丈夫ですよ。」とおっしゃいました。「すみません…。」涙声で謝りながら、私はその優しさに救われた思いでした。
 それから6年が経って、先日のこと。仕事でベトナムに行き店に帰って来た時、机の上に〝じゃんがら〟というお菓子を見つけました。「Iさんだ!」とすぐに分かりました。Iさんは帰国のお土産に、いつも地元のお菓子〝じゃんがら〟を買ってきて下さいました。何回も見慣れたその箱を見て、私は留守中にIさんが来られた事を知りました。「お元気になられたんだ…。」と本当に嬉しかった。お会いする事は出来なかったけれど、タイまで来られる程、お元気になられた。その事だけで充分でした。本当に良かった!一期一会。タイで長い間生きてきて、いろいろな出会いがありました。別れもありました。Iさんとは2度とお会いする事はないでしょうが、〝じゃんがら〟を食べながら、Iさんいつまでもお元気で…と祈りました。
 このところあまりいい事がなかっただけに、この出来事はへこんでる私への嬉しいプレゼントでした。ちょっと元気になったみたい。なんだかほんの少しの出来事で、心が浮かんだり沈んだり。これって年のせい?どなたか私に元気を分けて下さいな。立ち直りは早い私です。

h16