第 35 回

 お客様も長い常連さんになると、お友達のような関係になっていくことがあります。
 随分前になりますが、60代後半の男性と30代の女性が、お二人で来店されました。親子と見えなくもないけれど、雰囲気はご夫婦でした。それから、たびたびご来店下さって、その度に私は呼ばれて席にご一緒しました。「私たちは駆け落ちしたんですよ。」そんな話から始まって、長い長い物語をお二人は聞かせてくれました。こんな人生があってもいい…。そう思わせるようなお話でした。
 何年かたって、「しばらく姿を見ないな…。」と思っていると、ご主人が激やせして、ふらりとお見えになりました。「主人がガンで手術したんですよ。」と奥様が耳打ちしてくれました。それから、お酒も食事も、時間をかけてゆっくりと元に戻していかれました。奥さまは、奥様なりにストレスがあったのか、時にはご主人を先に帰して、私と二人でおしゃべりすることがありました。私は、あまりお客様の生活に近付くと、後でつらくなることがあるので、もっぱら聞き役でした。「二人で駆け落ちして、いろいろなことがありました。やっとバンコクに落ち着いて、少しはこれからのことを考えられるようになったのに、主人の病気でしょ。思いっきり喧嘩することも、甘えることもできない。親子みたいな歳の差でも、主人は今わがままになっちゃって…。つらいですよ。でも、やっと手術も終わって、こうして外に食事に出られるようになって、ホッとしているんです。服部さんのコラムに、いつか私たちが登場するなんてことがあったら楽しいな…、と主人と話しています。いつも楽しみに読んでるんですよ。こんな夫婦もいたなぁ…って、ずっと先に思い出してもらえたらいいなぁ…、なんてね。」ちょっと酔って、奥様がこんなことをおっしゃいました。「いつか書きますよ。〝仲のいいご夫婦がいました〟って。」そんな会話からしばらくは平和な時間が流れていきました。  
 そしてある日、奥様が一人、店に飛び込んでこられました。「主人、再発しちゃったんです…。もうタイでは無理だって。これから日本に帰って、国立ガンセンターに入院します。私たちには、もう日本には居場所がないので、私は病院の側にアパートを借りて、看病に通うつもりです。急なことで頭が真っ白だけど、服部さんには一言お別れを言いたくて…。」言葉が出ませんでした。こんな時にかける言葉があるのでしょうか。コラムにこんな話題はふさわしくないということは、重々承知の上で、今回は書かせていただきました。もうご夫婦が帰国されて時がたちます。いろんな人生が、それこそ人の数だけの人生があります。私とこのご夫婦の人生が、ここバンコクで交差する確率はどのくらいなのでしょう。いつかの約束を果たすために、私はこれを迷いながら書きました。私事でごめんなさい。でも、でも、もし届くならば、一言言いたいです。「Kさん、Kさんのボトルは、まだキープしてあります。いつでもどうぞ。待ってますよ!」  (はっとり)

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