「タンブン」で大丈夫!?

 タイの人たちは「タンブン」大好きです。うちの従業員たちも何か事あるごとに「タンブンに行かなきゃ」と言います。これはたぶん生まれてからずっと迷わずにしてきた事なので生活の一部になっているのでしょう。悪い事が続くと厄払いの意味を込めて「タンブン」良い事があれば感謝の意味を込めて「タンブン」 お寺がそれだけ身近な存在だという事に改めて気付かされます。先日も「自転車が盗まれた、娘が病気になった、指をケガした、だからタンブンに行って来る」という従業員がいました。そんな時、私はいつも「いってらっしゃい」と言います。たまには付き合ってお寺に行く事もあります。けれど、心の中では常に違和感があるのです。今回の例でいえば、自転車が盗まれたというならば、鍵を付けるとかもっと安全な駐輪場所を見つけるとか…。娘が病気ならば早く病院に連れて行って医者に診てもらって何が原因なのかを知るとか…。指をケガしたというならば、早く治癒しないと仕事に差し支える訳なので良い治療法を調べるとか…。と、こんな具合に考えてほしいと思うのです。まず問題を解決してから「タンブン」するべきじゃないのかな?と思ってしまうのです。これは私が日本人だから仕方がないのかもしれません。何かにつけ「神仏に頼る」という習慣が無くなって日本という国が良くなったのかどうか、それはわかりません。今の日本を見れば胸を張って答えは出せません。けれど、宮本武蔵の「独行道」という著書にこんな言葉があります。「神仏を尊み、神仏を頼らず」古い話ですいません。私、ちょっと歴史好きなもので。日本人にとって「神仏」は大切なものであったという事実は否定できないと思います。でもね、どんな時でも「タンブン」で全て大丈夫!!としてしまうと何でも何かにつけ神仏に頼りながら生きてるみたいな感じがするので、頼り過ぎというのはちょっと違うんじゃないかなぁ…などと独り言をつぶやきながら日々を暮らしています。そして、そんな事を思った一日が終わるとき、ガニ股で肩をいからせた元ヤンの男子従業員が「お疲れ様」「サワディーカップ」と挨拶をして帰って行くのですが、その時に彼が無意識に店の前にある御神木に両手を合わせワイをしているのを見ると「いいなぁ…」と思います。タイ人は古い木に対してとても愛着を持っていて(日本でも樹齢○年とかいって古い木を大切にする同じ習慣がありますよね)心から愛情や感謝の意味を込めて無意識に手を合わせるという行為が私は好きなのです。何か大きなものによって「生かされている」と思う瞬間ってありますよね。だから私は「タンブン」を否定できない。でも、場面が変わると「そこでタンブンは違うだろう」と思ってみたり…。なので、タンブンについては複雑な心境なのです。あーぁ、これから何十年タイに住んだとしても、やっぱり私は日本人なんだろうなァ。

(はっとり)

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