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追悼と鎮魂の八月十五日

日本が病の床に就いて71年!アジアを救った日本!

 今から71年前の昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争が終結しました。後の昭和57年(1982)に、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定され、「終戦記念日」又は「終戦の日」とよばれるようになりました。歴史の教科書では、「8月15日に太平洋戦争が終った」の1行で済ませてしまっているのが一般的で、なぜ戦争が始まり、戦争中にどんなことがあり、敗戦に至ったか、詳しくは触れられていません。当時を知る人も少なくなってしまった現在、あの戦争は何だったのか、今の日本国民には殆ど教えられていない事を簡単に纏めてみましょう。

 第二次世界大戦は、ドイツ軍の主戦場となった欧州・中東戦線と、日本軍が戦った太平洋戦争に分けられます。近世において、アジア諸国は欧米に植民地化されており、どの国も文化資産を収奪され、各国民は奴隷のように搾取され、麻薬を持ち込まれ言いなりにされて動物のように扱われていました。ところが、日本が日露戦争で奇跡的に勝利したところから、アジアの人々の様子が変わってきました。初めて有色人種が白色人種に勝ったという、世界史上の大事件だったのです。ジンギスカン侵略の後遺症が深く残っていた西欧では19世紀から「黄禍論」があり、特に人口の多い中国は麻薬によって骨抜きにされました。今日、日本に対して「歴史を直視せよ!」と恫喝する中国は、アヘンを持ち込み自国を破壊した英国に対しては何も言いません。

 更に国力の低い東南アジアやアフリカ、中東の諸国には欧米の侵略と搾取が徹底して行われていたなかで、日露戦争で勝利した日本こそ一番の脅威となったわけです。

 第一次大戦で何の被害も受けずに戦勝国になった日本とアメリカは、西欧の没落をよそに世界五大国の一員となり、日本は世界の平和提案として「人種平等案」を提出しました。これは世界史初の快挙で、今までの白人優先・白人専用の国際法を打ち破る観念に基づいていました。このあたりから欧米諸国は自分たちの利権を脅かす日本に対して一層警戒するようになり、そしてついに、これを突き付けたら、弱小モナコ公国でさえ武器を取って立ち上がるだろうとして、どの国も実行に移さなかった暴力的な経済政策を米国が発動します。「その国の生産活動に必要な物資を剥奪するのは武力で人命を奪うのと変わらない戦争行為である」と、米国自身の弁護士が後に語った「ハル・ノート」を日本に突き付けたわけです。この内容は「日本は死滅せよ」と言っているのと同じで、日露戦争以来くすぶり続けた日本に対する欧米の悪意が爆発したのです。日本議会からの暫定協定案をルーズベルト大統領は握りつぶし、日本を開戦に追い込みました。日本の宣戦布告も妨害工作によってホワイトハウスには届かず、短期決戦による早期講和を目指さなければ絶対に勝ち目がない日本は、米海軍基地のあるハワイを目指して既に連合艦隊を出発させていましたが、その航路を米国政府はすでに海上封鎖して自国の漁船を立ち入れないようにしていたのです。さらに、真珠湾軍港のレーダー基地の担当員には異例の特別休暇を与えていました。すなわち、日本軍の奇襲(だまし討ち)を演出して、厭戦気分にあったアメリカ国民の感情を高揚させる必要があったからです。こうして「リメンバー・パールハーバー」の言葉が生まれ、日本が決して望まなかった太平洋戦争が始まりました。米国にとっては、ただの権益獲得を目的とした戦争でも、日本は国の存亡がかかった戦争に突入したのです。早期講和の道が閉ざされた日本は、50倍もの工業生産力を持つ米国との消耗戦に引きずり込まれ、広域にわたる戦地で多くの死者を出し、各都市は無差別爆撃にさらされていきました。