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私達にとって 八月十五日は何の日

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日本が消滅してしまう 苦渋の決断をした昭和天皇

 私は以前に日本の大学で教職についておりました。ある時、ゼミの学生と雑談をしていた際に、「大東亜戦争(太平洋戦争)が終わったのは何月何日か知っていますか?」という質問をしましたら、知っていたのは3人だけでした。「親か先生が教えてくれなかったんですか?」と訊いたら、「だって、試験に出ないんでしょう?」と逆に詰問されて愕然としたことがありました。終戦の日は、知識や教養ではなく、日本人なら誰でも知っている「常識」だと思っていたからです。
 ただし知っている学生は、やたらと詳しく、8月6日は広島原爆投下、9日は長崎投下、15日は終戦だが、それに係るポツダム宣言受諾の経緯まで、ちゃんと答えられました。その学生は長崎の出身者で、彼女が言うには、「私たちは、小中高まで8月9日は登校日で、その日に戦争についての平和教育を受けてきました。なので、私の周囲に、終戦記念日を知らない人がこんなにいるなんて信じられません」と驚いていました。他の鹿児島県出身者も、「知覧(特別攻撃隊の基地があった)が近いので、先生から教わりました」と、戦争末期の状況をよく知っていました。終戦の日を知らなかった学生は全て中部から関東、北海道の学生でした。
 これだけ地域差があるのは、本人の興味や好奇心の問題ではなく、〝教育〟の問題だということを痛切に思い知らされたのです。
 たしかに、歴史の教科書では、「8月15日に太平洋戦争が終った」の1行で済ませてしまっているのが一般的で、降伏に反対する陸軍がクーデターを計画していたことや、8月15日の正午に天皇の肉声(録音)による日本が戦争に負けたことを全国民に伝えるラジオ放送があり、日本国民が大きな衝撃を受けたことなど、詳しくは触れられていません。
 昭和20年(1945)8月15日に戦争が終結しました。後の昭和57年(1982)に、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定され、「終戦記念日」又は「終戦の日」とよばれるようになりました。今から68年前のこの日に何があったのか、現在の若い人たちには教えられていない事を簡単に纏めてみましょう。 
 終戦を促す「ポツダム宣言」は7月26日に米英中の三カ国によって発表されました。「日本が無条件降伏しなければ迅速かつ完全に壊滅する用意ができている」という内容です。日本はこれを「検討する」と声明した上で、不可侵条約を結んでいたソ連に対して和平を斡旋してくれるよう依頼しますが、この「検討」をアメリカは「無視」と一方的に判断し、8月6日広島に原爆投下。斡旋を頼んだ相手のソ連は不可侵条約を破って9日に参戦し、この日長崎にも原爆が投下されました。すでに同盟国のドイツは降伏しており、頼みのソ連まで参戦したのでは戦争を続けられないとして、ポツダム宣言受け入れを主張する東郷外相らに対して阿南陸軍大臣らは抗戦を主張して紛糾。結論が出ないため深夜、昭和天皇の判断を仰ぐと、天皇は即座に「東郷外相と同じ意見であり、このままでは日本という国がなくなってしまう。ここは忍び難きを忍んで降伏するしかない」と答えました。翌日、この方針を連合国に通知すると、12日に「降伏の時より天皇および日本の国家統治の権限は連合国のものとなる」という返事が返ってきました。これを巡って陸軍の抗戦派が、これでは国体の維持ができないと再び紛糾し、14日、天皇の意見を仰ぐと「私の考えはこの前と同じで、これ以上の戦争継続は無理である。この降伏によって日本が連合国に蹂躙されたとしても種子の一粒でも残れば国の再生は可能だ。しかし今のまま戦い続けたら、日本は世界地図から完全に抹消されてしまう。私がすべきことがあれば何でもする。国民に私が呼びかけるのがよければ進んでマイクの前に立とう。将兵には動揺があるだろうが必要なら自分が説得に当たる。詔を出す必要があるだろうから政府は早速起案して欲しい。」と答えました。泣いている阿南陸軍大臣に天皇は「大丈夫だよ。きっと何とかなる」と優しく声を掛けたそうです。
 14日の午後、政府から「重大な録音があるから」ということで国営放送(NHK)の録音班が5人呼ばれ、最新式の録音機を2台持って皇居へ入り、翌日15日に放送する天皇のメッセージ(玉音放送)を深夜1時頃までかかって収録しました。2台の録音機で同時に行い、念のため2回取ったので計4組の玉音盤が完成し、これは皇后官職事務官室(宮内庁の女性職員の部屋)の金庫に収められました。
 録音を終えたNHKの職員が帰ろうとした所、終戦に反対する陸軍の兵士たちが彼らを拘束監禁し、午前3時頃にかけて皇居を占拠し、玉音盤を探すが見つからない。まさか女官の部屋にあるとは思わなかったためです。反乱軍によってNHK放送会館も占拠されましたが、午前5時半、阿南陸軍大臣が自刃。8時頃までに反乱軍は自主退出、8時半に玉音盤が放送協会へ搬出されました。この日の各新聞朝刊は既にポツダム宣言受け入れの記事が校了し、印刷も済んでいましたが、玉音放送を待つため配達は差し止められていました。
 15日午前11時、一人の陸軍憲兵中尉が放送会館に乱入して放送をやめさせようとするが取り押さえられ、正午。時報に続いて「ただ今より重大なる放送があります」と和田信賢アナウンサーの声。戦時中で昼間の送電がストップされていた地方にもこの日だけは電気を流しておく指示が行き届いていました。国歌・君が代が流れた後、『 朕深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲(ここ)に忠良なる爾(なんぢ)臣民に告く。
朕は帝國政府をして米英支蘇四國に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。
-中略-加之敵は新に残虐なる爆彈を使用して頻(しきり)に無辜を殺傷し惨害の及ふ所、眞に測るへからさるに至る。而も尚交戰を継続せむか終に我か民族の滅亡を招來するのみならす延て人類の文明をも破却すへし。-中略-斯の如くは朕何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せむや是れ朕か帝國政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、以て万世の爲に太平を開かむと欲す」天皇の肉声が流れました。現代の日本人には難解でしょうが、大意としては「同盟国を失い、不可侵条約も破られた日本は世界で孤立してしまい、残虐な原子爆弾によって罪のない人々を多く亡くし、戦争を続ければ日本が滅亡するばかりか、敵味方双方に多くの死者を生じる。これまで日本の国民はよく耐えてきてくれたが、将来のために先祖に詫びつつ、やむなく連合国の提案を受け入れる」という事です。
 私の母は当時、中学生でしたが、天皇が何を言っているのかちゃんと解ったそうで、この終戦の日の様子を何度か話してくれました。当時、この放送を聞いた国民は、涙を流す者あり、自刃する者あり、しかし大きな騒動や混乱はなかったそうです。天皇自らの言葉ということもあったでしょうが、先の東北大震災の時に世界各国が驚いていたのが、日本人の秩序正しさでした。それは連綿と引き継がれているのだと思います。
 昭和天皇が国民に終戦を告げたこの日、日本は天智天皇の白村江の戦い以来の敗戦というものを味わいました。しかし天智天皇がその敗戦の後で日本の基礎を築いたように、日本国民は世界の大国へと成長させていったのです。

064a

 終戦から68年経った現在、この戦争がどうして起きたか、何があったのか、詳しくは国民に知らされないままです。
近世において、アジア諸国は欧米に植民地化されていました。国の文化資産を収奪され、国民は奴隷のように搾取され、麻薬を持ち込まれて言いなりにされて動物のように扱われていました。日本が日露戦争で奇跡的に勝利したところから、アジアの人々の様子が変わってきました。初めて有色人種が白色人種に勝ったという、世界史上の大事件だったのです。ジンギスカン侵略の後遺症が深く残っていた西欧では19世紀から「黄禍論」があり、人口の多い中国が麻薬によって骨抜きにされました。国力の低い東南アジアの国々は簡単に侵略と搾取が行われました。そこで、日露戦争で勝利した日本こそ一番の脅威となったわけです。第一次大戦が勃発し、何の被害も受けずに戦勝国になった日本とアメリカが西欧の没落をよそに、世界五大国の一員となり、日本は世界の平和提案として「人種平等案」を提出しました。 これも世界史初の快挙で、今までの白人優先・白人専用の国際法を打ち破る観念に基づいていました。このあたりから欧米諸国は自分たちの利権を脅かす日本をより一層警戒するようになり、そしてついに、これを突き付けたらモナコ公国でさえ武器を取って立ち上がるだろうとして、どの国も実行に移せなかった経済政策を発動します。「その国の生産活動に必要な物資を剥奪するのは武力で人命を奪うのと変わらない戦争行為である」とアメリカ自身の弁護士が言った「ハル・ノート」を日本に突き付けたわけです。この内容は、日本は死滅せよ、と言っているのと同じで、日露戦争以来くすぶり続けた日本に対する欧米の悪意が爆発したのです。日本議会からの暫定協定案をルーズベルト大統領は握りつぶし、日本を開戦に追い込みました。日本の宣戦布告も妨害工作によってホワイトハウスには届かず、短期決戦による早期講和を目指さなければ絶対に勝ち目がない日本は、米海軍基地のあるハワイを目指して連合艦隊を出発させていましたが、その航路をアメリカはすでに海上封鎖して自国の漁船を立ち入れないようにしていました。真珠湾軍港のレーダー基地の担当員には特別休暇をあたえていました。すなわち、日本軍の奇襲=だまし討ちを演出して、厭戦気分にあったアメリカ国民の感情を高揚させる必要があったからです。こうして「リメンバー・パールハーバー」という言葉が生まれ、太平洋戦争が始まりました。
 早期講和の道が閉ざされた日本は消耗戦に引きずり込まれ、多くの死者を出し、東京大空襲では人々が逃げられないように大きな円を描くように焼夷弾を落として大火災を起し、封じ込まれて密集した人々の上から1㎡あたり3発の焼夷弾を落として子供、女性、老人を含む10万人が燃え上がって絶命しました。人類史上空前の戦争犯罪であり、大虐殺でした。さらに、放っておいても負ける状況になっていた日本に、戦争後の二極体制となる相手国のソ連への牽制=武力誇示と開発したばかりの新兵器の人体実験というのが事実である「原子爆弾」を二つの都市へ投下しました。こうして、日本は終戦を受け入れるしかなくなったのです。
 今、「戦争責任」や「謝罪」、日本軍の残虐行為等が云々されますが、本当の歴史を学んでの上でしょうか。中国や欧米による捏造の証拠が次々と現れていますが、そこに目を向けても良いのではないでしょうか。アジアの人たちはこんなことを言っています。
 「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々は、この2つの日を忘れてはならない。」(タイ・ククリット・プラモード元首相)
 「かつて日本人は清らかで美しかった。親切で心豊かだった。アジアの国の誰にでも自分のことのように一生懸命に尽くしてくれた。その中には少しは変な人もいたり、怒りんぼやわがままな人もいた。自分の考えを押し付けて威張っている人だっていたけれど、その頃の日本人はそんな少しの嫌なことや不愉快さを越えて、おおらかで真面目で明るくて、希望に満ちていた。戦後の日本人は自分たち日本人のことを悪者だと思い込まされた。学校でもジャーナリズムもそうだとしか教えなかったから。自分たちの父母や先輩は悪いことばかりした残虐非道なひどい人たちだったと思っているようだ。だから、アジアの国に行ったらひたすら、ぺこぺこ謝って、今の私たちはそんなことはしませんと言えばよいと思っている。技術が向上して経済力がついてくると自分の国や自分までが偉いと思うようになって、うわべや口先では、済まなかった悪かったと言いながら、ひとりよがりの自分本位の偉そうな態度をする。そんな今の日本人が心配だ。本当にどうなってしまっただろう。日本人はそんなはずではなかったのに。本当の日本人を知っている私たちは今、いつも歯がゆくて悔しい思いがする。自分のことや自分の会社の利益ばかり考えて、こせこせと身勝手な行動ばかりしているヒョロヒョロの日本人はこれが本当の日本人なのだろうか。自分たちだけで集まっては自分たちだけの楽しみや贅沢にふけりながら自分の国をバカにしたり、さげすんだりしている。こんな人たちと本当に仲良くしていけるのだろうか。どうして、どうして日本人はこんなになってしまったんだろうか」(マレーシア・ノンチック上院議員)