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鎮魂の夏・八月十五日

088

日本が病の床に就いた日 69年前の出来事

 今から69年前の昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争が終結しました。後の昭和57年(1982)に、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定され、「終戦記念日」又は「終戦の日」とよばれるようになりました。歴史の教科書では、「8月15日に太平洋戦争が終った」の1行で済ませてしまっているのが一般的で、降伏に反対する陸軍がクーデターを計画していたことや、8月15日の正午に天皇の肉声(録音)によって、日本が戦争に負けたことを全国民に伝えるラジオ放送があり、日本国民が大きな衝撃を受けたことなど、詳しくは触れられていません。当時を知る人も少なくなってしまった現在、この日に何があったのか、現在の若い人たちには殆ど教えられていない事を簡単に纏めてみます。  第二次世界大戦は、ドイツ軍の主戦場となった欧州・中東戦線と日本軍が戦った太平洋戦争に分けられます。近世において、アジア諸国は欧米に植民地化されており、どの国も文化資産を収奪され、各国民は奴隷のように搾取され、麻薬を持ち込まれ言いなりにされて動物のように扱われていました。ところが、日本が日露戦争で奇跡的に勝利したところから、アジアの人々の様子が変わってきました。初めて有色人種が白色人種に勝ったという、世界史上の大事件だったのです。ジンギスカン侵略の後遺症が深く残っていた西欧では19世紀から「黄禍論」があり、人口の多い中国が麻薬によって骨抜きにされました。更に国力の低い東南アジアの国々は侵略と搾取が徹底して行われました。 そこで、日露戦争で勝利した日本こそ一番の脅威となったわけです。第一次大戦で何の被害も受けずに戦勝国になった日本とアメリカは、西欧の没落をよそに世界五大国の一員となり、日本は世界の平和提案として「人種平等案」を提出しました。これは世界史初の快挙で、今までの白人優先・白人専用の国際法を打ち破る観念に基づいていました。このあたりから欧米諸国は自分たちの利権を脅かす日本をより一層警戒するようになり、そしてついに、これを突き付けたら、弱小モナコ公国でさえ武器を取って立ち上がるだろうとして、どの国も実行に移せなかった暴力的な経済政策を発動します。「その国の生産活動に必要な物資を剥奪するのは武力で人命を奪うのと変わらない戦争行為である」とアメリカ自身の弁護士が後に語った「ハル・ノート」を日本に突き付けたわけです。この内容は、日本は死滅せよ、と言っているのと同じで、日露戦争以来くすぶり続けた日本に対する欧米の悪意が爆発したのです。日本議会からの暫定協定案をルーズベルト大統領は握りつぶし、日本を開戦に追い込みました。日本の宣戦布告も妨害工作によってホワイトハウスには届かず、短期決戦による早期講和を目指さなければ絶対に勝ち目がない日本は、米海軍基地のあるハワイを目指して既に連合艦隊を出発させていましたが、その航路をアメリカはすでに海上封鎖して自国の漁船を立ち入れないようにしていたのです。さらに、真珠湾軍港のレーダー基地の担当員には異例の特別休暇を与えていました。すなわち、日本軍の奇襲(だまし討ち)を演出して、厭戦気分にあったアメリカ国民の感情を高揚させる必要があったからです。こうして「リメンバー・パールハーバー」の言葉が生まれ、日本が望まなかった太平洋戦争が始まりました。アメリカにとっては、ただの権益獲得を目的とした戦争ですが、日本は国の存亡をかけた戦争に突入したのです。早期講和の道が閉ざされた日本は、当初50倍もの工業生産力を持つアメリカとの消耗戦に引きずり込まれ、広域にわたる戦地で多くの死者を出し、遂に日本本土の各都市は無差別爆撃にさらされていきました。
 太平洋の島々に点在する日本軍に対し、米軍は次々と上陸作戦を行いました。彼らのヘルメットには「ネズミ駆除業者」と書かれていました。アジア人や有色人種を虐げ徹底的に差別するアメリカの残虐性が東京大空襲では露骨に表れました。人々が逃げられないように大きな円を描くように焼夷弾を落として大火災を起し、封じ込まれて密集した人々の上から1㎡あたり3発の焼夷弾を落として子供、女性、老人を含む10万人が燃え上がって絶命しました。人類史上空前の戦争犯罪であり、大虐殺でした。
 沖縄から避難する学童を乗せて長崎に向けて航行中の対馬丸は、米潜水艦の攻撃を受けて撃沈、775名の小学生が冷たい海に沈んでいきました。平文の通信を傍受しておきながら「知らなかった」では済まない。合計33隻もの民間船を沈めたこの虐殺潜水艦ボーフィン号は、ハワイのアリゾナ記念館の隣に展示され、『真珠湾の報復者』とペイントされています。完全に国際法違反ですが、アメリカはこれを堂々と誇っているのです。因みに日本軍の真珠湾攻撃は、軍事施設のみが対象で、湾内に停泊していた病院船には一発の銃弾も撃っておらず、修理ドックも攻撃していませんでした。そしてアメリカは、長引く戦局で放っておいても負ける状況になっていた日本に、戦争後の二極体制となる相手国のソ連への牽制・武力誇示と、開発したばかりの新兵器で人体実験が目的の原子爆弾を広島と長崎へ投下しました。どちらも違うタイプの核爆弾で、明らかに「実験」です。こうして、日本は終戦を受け入れるしかなくなったのです。 
 終戦を促す「ポツダム宣言」は7月26日に米英中の三カ国によって発表されました。「日本が無条件降伏しなければ、迅速かつ完全に日本を壊滅する」という内容です。日本はこれを「検討する」と声明した上で、不可侵条約を結んでいたソ連に対して和平を斡旋してくれるよう依頼しますが、この「検討」をアメリカは「無視」と一方的に判断し、8月6日広島に原爆投下。斡旋を頼んだ相手のソ連は不可侵条約を破って9日に参戦し、この日長崎にも原爆が投下されました。すでに同盟国のドイツは降伏しており、頼みのソ連まで参戦したのでは戦争を続けられないとして、ポツダム宣言受け入れを主張する東郷外相らに対して阿南陸軍大臣らは抗戦を主張して紛糾。 結論が出ないため深夜、昭和天皇の判断を仰ぐと、天皇は即座に「このままでは日本という国がなくなってしまう。ここは忍び難きを忍んで降伏するしかない」と答えました。この方針を連合国に通知すると、「降伏の時より天皇および日本の国家統治の権限は連合国のものとなる」という返事が返ってきました。再び天皇の意見を仰ぐと「この降伏によって日本が連合国に蹂躙されたとしても種子の一粒でも残れば国の再生は可能だ。しかし今のまま戦い続けたら、日本は世界地図から完全に抹消されてしまう。私がすべきことがあれば何でもする。国民に私が呼びかけるのがよければ進んでマイクの前に立とう」と答えました。   14日午後、政府から「重大な録音があるから」ということで国営放送(NHK)の録音班が呼ばれ、最新式の録音機を2台持って皇居へ入り、翌日15日に放送する天皇のメッセージ(玉音放送)を深夜1時頃までかかって収録し、皇后官職事務官室(宮内庁の女性職員の部屋)の金庫に収められました。録音を終えたNHKの職員が帰ろうとした所、終戦に反対する陸軍の兵士たちが彼らを拘束監禁し、午前3時頃にかけて皇居を占拠し、玉音盤を探すが見つからない。まさか女官の部屋にあるとは思わなかったためです。 午前5時半、阿南陸軍大臣が自刃。8時頃までに反乱軍は自主退出し、8時半に玉音盤が放送協会へ搬出されました。この日の各新聞朝刊は既にポツダム宣言受け入れの記事が校了し、印刷も済んでいましたが、玉音放送を待つため配達は差し止められていました。
 15日の正午。時報に続いて「ただ今より重大なる放送があります」と和田信賢アナウンサーの声。戦時中で昼間の送電がストップされていた地方にもこの日だけは電気を流しておく指示が行き届いていました。国歌・君が代が流れた後、天皇の肉声が流れました。大意としては「同盟国を失い、不可侵条約も破られた日本は世界で孤立してしまい、残虐な原子爆弾によって罪のない人々を多く亡くし、戦争を続ければ日本が滅亡するばかりか、敵味方双方に多くの死者を生じる。これまで日本の国民はよく耐えてきてくれたが、将来のために先祖に詫びつつ、やむなく連合国の提案を受け入れる」という悲痛な内容です。この放送を聞いた国民は、涙を流す者あり、自刃する者あり、しかし大きな騒動や混乱はなかったそうです。天皇自らの言葉ということもあったでしょうが、日本人の秩序正しさが現れていました。
 昭和天皇が国民に終戦を告げたこの日、日本は天智天皇の白村江の戦い以来の敗戦というものを味わいました。しかし天智天皇がその敗戦の後で日本の基礎を築いたように、日本国民は研鑽を重ね、世界の大国へと成長させていったのです。 今、「戦争責任」や「謝罪」、日本軍の残虐行為等が云々されますが、本当の歴史を学んでの上でしょうか。中国や欧米による捏造の証拠が次々と現れていますが、そこに目を向けても良いのではないでしょうか。アジアの人たちはこんなことを言っています。
 -「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。12月8日(開戦)は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々は、この2つの日を忘れてはならない。」-
(タイ王国・ククリット元首相)
 タイの人がここまで言ってくれているのに、今の日本人はどう答えられるのでしょう。
過去に大きな戦争を戦った動機にも、負けた原因にも、極限状態のふるまいにも、日本人らしさが表れています。他国を侵略したとするならば、その国に学校や病院を作ったり、道路整備や鉄道建設をするでしょうか。欧米諸国はそんなことは何一つ行いません。奴隷化して搾取するだけです。太平洋戦争で日本はなかなか降伏しなかった。降伏しない相手と戦うことほど恐ろしいことはない。終戦後もアメリカは日本軍の士気の高さと愛国心の強さに怯えました。そこでGHQによる7年近い占領統治下で徹底して実施したのは『日本人の洗脳教育』でした。戦前の日本は全て悪い、日本軍は残虐行為を行った鬼である。といった宣伝政策や、学校教育の中で愛国心や日本人の精神性を排除させ、罪悪感を植え付ける事に邁進したのです。その結果、愛国心を口にすると、軍国主義や右翼というレッテルを貼られるようになってしまったわけです。
 援助交際にアダルトビデオ、賞味期限の改ざん、ネット詐欺、自分の子供に変な名前を付ける親、歩きスマホで駅のホームから落ちる日本人が増殖してしまったところに、終戦後のGHQによる日本占領政策が見事に成功しているのです。ある意味では未だに占領下にあると云っても良いでしょう。戦争で命を落とした人たちにどう顔向けできるのか。美徳や品格とは何なのか。それを絶えず心掛かりにしなければ、日本は「病床に伏した」ままなのです。