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「表現の自由」に限界はないのか?

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「表現の自由」に名を借りた暴力 人が嫌がることはやらない

 前号の続きとなるが、パリ銃撃テロ事件に関する世界中のメディアや識者たちの「言論の自由を守れ!」という論調の嵐に、私は違和感を抱き続けている。今回の事件の発端となった諷刺画掲載紙・シャルリー・エブドの「表現」への疑問である。事件を糾弾する声が世界中で高まる一方、「なぜその『表現』は攻撃されたのか」という疑問を深く分析して考察するメディアの報道がほとんど見当たらない事にもある。少なくともあるのかも知れないが、「言論の自由を守れ!」の声にかき消されてしまって聞こえないのだ。欧米や日本の報道の中で、それは意図的に避けられているのかもしれない。勿論、襲撃犯たちの残忍な殺害は決して正当化できるものではない。その大前提の上で、諷刺画週刊紙の「表現」は、本当に「守れ!」と叫ぶべき「言論」だったのかという疑問が増幅していくのである。
 白人キリスト教国が神の福音の名のもとに、アメリカ大陸、アフリカ、アジアへの侵略・植民地化を進めた歴史があるからといって、例えばイラク戦争やアフガニスタン戦争の諷刺としてイエス・キリストを殺人者に例える諷刺画が作られたり、イエスが全裸で尻を突きだしている絵が描かれたとしたら、はたまた「聖書は糞」などと呼ばれたとしたら、キリスト教徒はそれを「表現の自由」だといって擁護できるのだろうか?断固、糾弾するだろう。今回、フランスは原子力空母シャルル・ドゴールを「イスラム国」掃討という名目で中東に派遣する。「イスラム殲滅」という表現まで用いている。現代戦において、航空母艦は打撃部隊に位置付けられる。即ち、イスラムへの宣戦布告なのだ。なぜ、こうなってしまうのか。テロ事件の死者に鞭打つのも何だとは思うが、あんな悪意と偏見に満ちた諷刺画を繰り返し掲載してきた者たちを「タブーに果敢に挑もうとする姿勢」だと評価するのはおかしい。相手のタブーを犯して敵意を煽った悪質な煽動者だというのが公平な見方ではないのだろうか。
 フランスでは370万人もの人々が「表現の自由を」と抗議デモを行ったが、ここに「表現の自由」と矛盾する「ヘイトスピーチ規制」との兼ね合いが浮上する。「ヘイトスピーチ」とは、人種、国籍、思想、宗教、信仰、性別、障害、職業、外見など、個人や集団が抱えるものを誹謗・中傷、貶す、差別し、さらには他人をそのように煽動する発言である。明らかに「シャルリー・エブド」の諷刺画は、ヘイトスピーチ(漫画)ではないか。それが「表現の自由」だと胸を張って言えるのか。非道なテロの帰結とはいえ、イスラムに対するヘイトスピーチの自由を数百万人もの人々が公然と要求したことで、 板挟みの立場に置かれたフランス在住ムスリムの人が抱く恐怖はいかばかりだろうか。かつてのアメリカ先住民や黒人奴隷に向けられた激しいバッシングの、まさしく相似形というべき現象である。
 折しも、アジアを歴訪中のローマ法王が「人の信仰を挑発したり、侮辱したり、笑いものにするべきではない。過激主義者に屈しないとの主張は理解するが、何でも一方的に表現して良いわけではなく、表現の自由は相互尊重の中で制限される」と、表現の自由にも限界があるという見解を示した。
 「言論・表現の自由」とは、人が大切にしているものを侮辱しても、傷つけてもいい、そんなに立派で便利な権利なのか。 現実社会には、国家間の戦争や個人的な喧嘩の種として、人種や宗教だけでなく、皮膚の色、言語、国籍等々がある。この差別の現実が、この世から戦争や殺人、凶悪事件を「永遠にゼロ」に出来ない理由でもある。しかし、ゼロにするたゆまぬ努力は必要のはずだ。 その第一は、差別を煽る報道や教育を控えることであり、人種や宗教を過度に誹謗中傷しないことだが、煽る行為の典型なのが、マスコミの「表現の自由」を盾にした報道姿勢だ。もっとも、日本のマスコミの大部分は日本自身を侮辱し続けるから別の意味で問題なのだが…。
 簡単に言えば、「言論・表現の自由」を盾にして、他人が大切にしているものを侮辱するな、ということだ。侮辱され続けたら、誰にでも我慢の限界はある。だから、戦争や殺人が絶えない訳で、判断力とモラルを欠いた「表現の自由」が、タイ在住の私たちも含めて世界各地の130万人の在留邦人がテロの標的にならないとも限らないのだ。

(由旬)