Vol,33

 五木寛之は「大河の流れも一滴の雫から」と書いた。
我々一人一人は、世の中という名の大河にあって、水の一滴、一滴にしか過ぎないという意味である。

 大河は時には様々な障害がある。岩があったり滝があったり、尾根によって迂回を余儀なくされたり、至る所に難関が待ち受けている。そんな状況の連続である。

 しかし、時として水は飛び跳ね、踊り、楽しく幸せな時がある。それは一瞬の極楽であり、喜びの刹那でもある。

 大河は全ての水を差別なく受け入れて時には清く、時には汚濁して海へ流れる。淡水が塩水と交わる時、大河は旅を終えて死を迎える。

 大河は我々の生。
 海は我々の死。

 アジアの片隅で暮らしていると、日本では感じる事がなかったエーテルの波動にしばしば囚われる。長春でも、ハノイでも、バンコクでも、それは不意にやってくる。

 「私は大河の一滴である」

 午後の雑踏で突然に吹き抜けてくる孤独感、あるいは既知感は、大河の一滴である自らの懐かしい記憶である。

 全てを受け入れて人は生きる。人生の歓びや憂いが如何程のものだろうか。 支流は伴侶であり、我が子である。やがて大河の一部となって濤々と流れ、海で蒸発し、雲となって雨を創り、再び大河の一滴一露に生まれ変わるのだ。