Vol,8

 進化の理を秘めているという「須弥山」。その遥か上天に弥勒菩薩が56億7千万年後に仏陀となるべく修業をしている「兜率天」 があります。数式や定理を用いずに言葉と文章のレトリックで宇宙を描こうとしたのが宮澤賢治でした。 彼の作品には人智では説明のつかない・表現しようの無い有意識テレパスを感じます。
 沈黙の声が舞い降りる深山で・・・ 「人は幸福せになれるのですか?」 「なれますとも」 「僕のような者でも?」 「なれますとも!」 宇宙の声に代わり賢治がそう答えているような気がしたものです。
エーテルの微粒子が降り注ぐ場所を離れて人里へ戻ります。 旅の終わりは旅の始まり。それが志した者のルールです。
 深山の巨木の傍らで満天の星を仰ぎながら「時間」と直面し、いつかは銀河を自らの内に体験して輝く宇宙の微塵となって無方の空に溶けて行く事ができるんだろうか? それに費やす時間は如何ほどなのでしょうか。
 正方形で一辺が1㎞の巨大な岩が泉のほとりにある。そこへ千年に一度、天女が舞い降りて泉で沐浴して行く。天女は脱ぎ捨てた羽衣を千回に一度だけ、その岩の上に置いてから沐浴し、済むと再び身にまとって天に帰って行く。この時、吐息よりも柔らかな羽衣が岩をかすかに撫でる動き(摩擦)により、岩が擦り減って消滅するまでの時間の流れ・・・。
 それでもまだ一つの劫は終わっていません。
宇宙の果ての果ては何でしょう。何も無いと言っても「何も無い状態」がある。その外側はやはり何も無い状態の空間が「有る」んだろう、きっと。

 心の中の宇宙はいつも届かない謎だといえます。